機動戦士ガンダム
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STAFF思い出コメント

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板野 一郎[作画]

 幸運にもサンライズ1スタの「ガンダム制作班」に席を置けた事が、今の私の礎となっています。当時の経験は何よりも得難い物でした。
 今思えば、キャリア1年程度の駆け出しアニメーターの自分が、総監督の富野さんや総作監の安彦さんと同じ部屋で机を並べて仕事をさせていただけたのは夢のように思います。宝くじの一等が当たったよりもラッキーでした。
 当時の私は、まだ二十歳で、必死にもがいて苦しんで、がむしゃらに仕事をしていました。
 描いても描いても終わらない。安彦さんの一原をひろっているつもりでいても、ひろえていない。描けば描くほど自分の下手さが身に染みて、作品の足を引っ張っている事を痛感する日々でした。
 そしてそんな中、追い打ちをかける様に安彦さんが病に倒れ、入院されてしまいました。
 その日からの1スタは、アムロとガンダムが無いホワイトベースでの戦いの様に、何時落とされてもおかしくない絶望感の中、残された者たちがボロボロになりながら修羅場を戦い抜いたつもりでしたが、結果的には視聴率が取れず打ち切られた負け戦でした(泣)。
 この時1スタで実感した事は “苦労は買ってでもしろ!”です。
 富野さん、安彦さん、1スタで一緒に戦った皆さん、一生の宝をありがとうございました。
 今では「ガンダム」と言えば勝ち組ですが(笑)。

越智 一裕[作画]

 当時は金田伊功さんに師事し始めたばかりの頃で、別の作品(『くじらのホセフィーナ』)をやっていたのですが、お願いして第1話の動画を3カットだけやらせていただきました。アムロがV作戦のファイルをめくるカットと、サイド7内のザク2カットでした。事前に設定を見ていなかったので、ザクをガンダムなのかと思っていました。金田さんがザクのデザインを褒めていたのを覚えています。第6話のシャアのシャワーシーンの動画も何カットかやっていますね。第11話で初めてエンディングに名前を出していただいたのですが、当時のクレジットは原動画の区別なく作画として表記されていました。僕は新人でしたので原画はやっていません。第11話以降のスタジオZ回では作画監督が不在で、鍋島修さんや長崎重信さんの原画をそのまま清書していました。ただ第20話や第25話では、実際の映像を見ると自分が動画をやったはずのカットが、安彦さんの画に差し変わっている事がありました。総作監としてギリギリまで直していらっしゃったんでしょうね。よく金田作画と勘違いされる第32話のザクレロ戦は長崎さんの作画です。劇場ガンダムの打ち上げパーティーで、安彦さんにジャンパーの背中にフラウのイラスト入りサインをしていただいたのは忘れられない思い出です。

亀垣 一[作画]

関田 修[演出]

 私がガンダムの制作に参加したのは、当時デスクの神田さんから、「監督の富野さんまで演出処理をしているので何とか演出を手伝ってくれないか」との話があったからです。
 当時は、スケジュール的にも厳しくセル泥棒に入られ撮影前のセルと背景を盗まれるなど大変でしたが、今ではいい思い出です。ちなみに、その背景は制作進行の草刈君が描いて放送に間に合ったのですが、劇場までそのまま使用されています。(たぶん本人もわからないでしょうね)

鍋島 修[作画]

 ガンダム第1話の時は、打ち合わせに行ったらあのレイアウトがあって、これをどうするんだろうと考えたような覚えがあります。
 第1話の原画は長崎さんがメインで描かれたと思います。僕と平山君はサブくらいじゃなかったかと記憶しています。
 その後の話数は、今のアニメの作り方と違い、原画マンの力の差がそのまま画面に出てしまいとても辛かったです。逃げようとしても許してくれませんでした。
(沖縄八重山諸島に、金田さん長崎さんと逃げたのは内緒です。)
 安彦さんの第1話のレイアウトはスタジオ解散の後、荷物を整理してたら出てきた物で、それが氷川さんのところに行き、安彦さんの画集の一部となりました。

長谷川 洋[仕上]

 私は、サンライズ設立当初より、色彩設定、仕上げ検査に関わっていましたが、1975年3月14日にスタジオディーンを設立し、サンライズ作品を主にさせて頂いていました。
 『機動戦士ガンダム』もその中の一作品です。
 当時は、超合金全盛期で、重さのないロボットは駄目だと言われていました。
 ガンダムは、白を基調にした大変異質な作品だったと思います。
 ロボット、人物達を印象つける為に、極力色数を少なくしたと思います。
 それは、ガンダム(白いモビルスーツ)ガンダムの母艦(ホワイトベース)シャアザク(赤い彗星)と言われるように、その他の連邦軍、ジオン軍のモビルスーツも同様に色で言われました。
 影も宇宙に溶け込むようにしたり、爆発の色などにも拘りました。
 ブライトには白目がないのですが、シリーズ1カットだけ白目があった記憶があります。
 ガンダムは、単にロボットアニメと言うだけではなく、人との関わりを大切にした作品でした。
 作業的には、毎日が残業で現場の女の子は、泣いていました。
 それ程スケジュール、内容共にきつい作品でした。
 ガンダムはスタッフの心の中に、そして皆様の心の中に何時迄も残ってる作品であると思っています。
 ガンダムに関わり、富野監督、大河原さん、安彦さん、亡くなられた中村さんと一緒に仕事をさせて頂いた事に感謝致します。

浜津 守[動画チェック]

 NASAはスペースコロニーから火星移民へと計画移行している現実がある。もはやスペースコロニーが往年の米国SFの舞台設定でしかなくなっても、ガンダムが現代の若い人たちに共感を抱かせているのは、東映動画やジブリ作品にはない、独自に拓いた「アニメの可能性」だと思う。
 富野監督の演出スタイルは映画制作方法をとって、アニメが映像メディアとして成り立つ実践を、テレビ番組で丹念に具体化されていた。そこには安彦良和さんの貢献度が多大だと感じるのは、次世代へ影響を及ぼすことを短期間で設計したこと。絵コンテの流れも、レイアウトによって強烈なインパクトを醸し出すことも、タイムシート管理も新しい表現がされていた。
 ガンダム制作に関わり、その後に演出や監督をして自分なりの創作スタイルを模索していけたのは、新しいアニメ作りを育成していた要素があったからだと感謝を捧げたい。

松崎 健一[脚本]

・楽しかったこと
 当時としては珍しく制作サイドから見ても、SFマニア、そしてマニアとまでは行かなくてもミリタリー趣味のマインドをくすぐってくれる作品でした。だから作業自体が楽しい作品でしたね。

・苦労したこと
 ただ現在のようにSF・科学・ミリタリー等の考証が役職として確立してはいなかったので、事前に打ち合わせできる時は良いとして、その時々、ましてや放送の後に理屈付けしなくてはならないこともあったりして。良く言えばガンダム世界での新たな科学的発見?(笑) 結果的にミノフスキー物理学とかに発展してゆく部分もあったりするわけですが。

・富野由悠季総監督との思い出
 考証役をやっていることもあって、興味があるかも知れないと富野監督が面白い物を見せてくれたことがあります。それは監督の父上が旧軍の兵器開発に関わっていたとかで、大戦末期のそのアイデアスケッチ。中には「なんじゃこりゃ?!」みたいなものもあって。
 例えば空気袋(酸素ボンベではない)を抱えた兵士が爆雷を持って海底で敵艦を待ち伏せするといった、状況を考えると笑うに笑えないような代物が。まず空気袋じゃ沈めないところからはじめ突っ込みどころだらけでしょ? 正に水中版『竹ヤリ』ですよね。まあそれだけその頃の日本が物資的思考的に逼迫していたという事なのでしょうが。
 もっとも今にして思うとあのアイデアスケッチ作成過程の有意義な部分の感覚は、後の『富野ライナーノート』と呼ばれる物に通じているのではないでしょうか。

山本 優[脚本]

 当時の僕は生意気盛りで、今思うと恥ずかしいことだらけ。
 富野さんにも、ずいぶんご迷惑をかけていたような記憶があります。
 それでも総監督はいつもニコニコと、未熟なライターをリードしてくださいました。
 当時のサンライズはとってもファミリーな感じで、僕は夜遅くまで上井草で誰かしらと飲んで騒いでいたものです。
 そんなとき、駐車場で富野さんが仮眠していたのを見かけた記憶があります。
 お酒はあまりたしなまなかったし、お疲れでもあったのでしょう。
 スタジオまでお見かけしたときは、仕事着に着替えてから娘さんにお電話して机に向っておられました。
 そう、ガンダムは「やさしいお父さんパワー」が隠し味になっているのだ実は。
 そんなことが懐かしく思い出されます。






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