機動戦士ガンダム
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第2回 テレビのフィルムを「劇場映画」にする手法

 劇場版『ガンダム』がどのようにして作られたか、それを知るためには、「テレビと映画のメディアの差」について確認しておくことが必要である。
 現在、ハイビジョン方式による地上波デジタル放送が主要都市で始まっている。これは劇場用映画に匹敵する高解像度(HD)だが、アナログ放送用のテレビ信号は走査線512本の密度(SD)である。また、日本のアニメーション制作は2000年前後からデジタルへと移行したが、それ以前はフィルムを媒体としていた。
 フィルムは感光した粒子が記録映像となるため、幅をミリで現した数値が大きいほど膜面積も大きくなり、解像度も高くなる。通常の劇場用フィルムは35mmで、パーフォレーション(送り穴)は1コマあたり6個。これは、かつてアナログのスチルカメラに使われていたものと同じである。ところがテレビ用の映画フィルムは16mmが大半で膜面積は4分の1以下、パーフォレーションも1個しかない。本来、16mmカメラはドキュメンタリー映画など精度や解像度よりも可搬性を重視した用途に開発された機材だったが、テレビ映画はそれで充分な精度・解像度であると判断されていたわけだ。
 アニメーションには専用の撮影台が必要で、その都合もあって1963年のテレビアニメ開始後しばらくは劇場・テレビともに35mmフィルムを使用していた。しかし、1972年ごろからコストの点で有利な16mm制作が増えていった。
 『機動戦士ガンダム』もまた16mmフィルムによる制作である。そのままでは劇場にかけることはできない。そこで採用されたのが「ブローアップ」と呼ばれる技術である。これは光学的手段で16mmネガを拡大し、35mmの大きな面積に焼きつけるものだ。劇場版『ガンダム』でテレビとまったく同じ箇所は、この方法が使われている。大スクリーンに投影すれば若干フィルムの粒子が荒れて見えるが、「物理的な画質よりも、テレビのオリジナルの雰囲気を尊重する」という姿勢が1980年の劇場版『ガンダム』制作時には貫かれていたため、ブローアップは妥当な手段であった。
 ただしテレビ作品を劇場にかけるという点では、もうひとつ別の問題があった。それは、テレビ用を想定した「画づくり」のクオリティと、そのバラつきである。テレビは次の放送までは1週間あく。ビデオなどで見返す習慣がまだ定着していなかった時代は、シリーズ全体ではなく各エピソード内で整合することが、優先されていた。それゆえ、レイアウトのとり方や作画上の描きこみといった密度感、あるいはキャラクターのニュアンスを伝える絵柄などが、必ずしも均質ではない。こうした落差は2時間強という「1本のフィルム」にまとまった場合、かなり目立つ。
 『機動戦士ガンダム』の場合は、アニメーション・ディレクターとして立った安彦良和の活躍で、テレビシリーズにしては異例なほど作画に手が入っていて、クオリティの確保がされていた。そうしたブロックを中心にして必要最小限のところに新作画を起こせば、「1本のフィルム」としてのまとまり感が出てくる。その新作画パートも16mmで撮影され、テレビのカットとの落差を極力抑えるような工夫がされている。
 安彦良和は当時この新作画作業を、「お化粧直し」と呼んでいたそうだ。あくまでもテレビが主体で、補強手段なのである。また富野総監督も、この手法を「ツギハギ映画」と自嘲しながらも、それが時代を変えるという確信をこめた言葉を多く残している。こうした言葉に含まれるニュアンスは深い。あくまでもマイナーなテレビシリーズとしての『ガンダム』という自覚があり、それゆえ「弱者」から挑戦していく姿勢を大事にしていたということなのだ。
 1980年当時は、メジャーな会社によって続々と大作アニメ映画が送り出されていた。その状況に対し、テレビの低予算番組、オモチャ屋の宣伝とさげすまれていたロボットアニメが、互角かそれ以上の戦いを挑む。そうした既成概念や体制の閉塞への反骨精神、あるいは革新への志向を集約したものが「アニメ新世紀宣言」である。そこに込められた気持ちは、小さなテレビ用フィルムを拡大してまでも「映画にしたい」という大望である。その意識は、フィルムの形式からも読みとることができるのである。
 こうした意識の積みかさねを通じて、劇場版『ガンダム』は「総集編映画(ダイジェスト映画)」とも微妙に異なる新しい表現形態を獲得できたのではないだろうか。





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