機動戦士ガンダム
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ガンダムを語る
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第11回 拡大するガンダム世界

 『機動戦士ガンダム』が1979年4月にTVシリーズを開始、1980年1月で放送終了、1981年3月に劇場版として再出発し、1982年3月に再度の完結を迎えるまでには、丸3年間を要している。この間にガンダムを取り巻く環境も激変し、日本のアニメ全体の環境も大きく変わっていった。
 たとえばTVスタートの時点では、月刊アニメ雑誌はまだ月刊アニメージュ(徳間書店:1978年6月創刊)しかなかった。月刊OUT(みのり書房:1977年4月創刊)はサブカル誌からアニメ色を強くし、ラポートの雑誌マニフィック(1978年11月創刊)は1979年4月に「アニメック」と改称し、オンエア中にガンダム特集で伸びてアニメ雑誌としての体裁を整えていく。TV最終回に近づくころに月刊ジ・アニメ(近代映画社:1979年11月創刊)が創刊され、ようやくアニメ雑誌が「ジャンル」として定着し始めた。
 これらの雑誌はいずれも『宇宙戦艦ヤマト』に続く作品として『機動戦士ガンダム』を認識していた。つまりアニメ雑誌というメディア自体がガンダムとともに成長していったということができる。
 その証拠に、劇場版『ガンダム』の公開に合わせてアニメ雑誌はさらに拡大する。1981年3月には秋田書店からA4判平とじの形態では3冊目となるアニメ雑誌「マイアニメ」が創刊。1981年6月には学習研究社からA4判中とじでアニメ雑誌「アニメディア」がスタートし、この時期には「アニメック」「OUT」もアニメ雑誌として定着したため、一気に数が増えた印象がある。A4判が4誌、B5判の2誌という過剰供給気味の雑誌数は、TV、劇場とたえずアニメの話題が提供された80年代前半を象徴するものだった。その初動は劇場版『ガンダム』人気が支えたと言える。
 1980年から1982年の初頭までは、雑誌の数的な増大にとどまらず、ガンダム世界がアニメ作品の枠をはみ出して、大きく拡大していった時期としても記憶されている。それも単独の動きではなく、さまざまなものが連動した結果、新しいアニメの楽しみ方、あるいは「模型改造」などの文化ごと開拓したという印象が強い。
 まず、TVアニメ版と観点を変えてガンダム世界をとらえたものの筆頭は、原作者であり総監督の富野由悠季(当時:喜幸)が小説に初めて挑んだノベライズ版「機動戦士ガンダム」(朝日ソノラマ刊:1979年11月30日初版)が挙げられる。これはTV版の設定を一部変更して全体を1冊に圧縮した小説である。さまざまな設定面での補強がなされた上に、戦場描写など放送という枠を離れた点が斬新であった。
 これがヒットしたために、ララァの死後も女性兵士クスコ・アルを迎えて「機動戦士ガンダムII」(1980年9月30日初版)が上梓され、劇場版公開に合わせて『機動戦士ガンダムIII』(1981年3月16日初版)でアムロの死をもって「3部作」が完結する。この3冊は現在でも角川書店に版元を移して購読可能である。たとえばRX-78の3号機とされるグレーの機体「G3」や赤い塗装のシャア専用リック・ドムなど、折に触れて商品化されることの多いモビルスーツは、この小説版に登場したものだ。
 次に作品を拡大させたものの代表格は、『機動戦士ガンダム記録全集』というハードカバー本である。日本サンライズ(当時)自身が版元になって発行した書籍で、全5巻。第1巻が1979年12月20日発行とオンエア中だったが、この第2巻(1980年5月1日発行)に掲載された大河原邦男のイラストが大きな話題を呼ぶ。それはザクの頭部に撃墜マークや細かいマーキングの描きこみがなされたリアルな絵画であった。
 前年の音楽集アルバム「戦場で…」用に安彦良和が提供したアムロのイラストで「アニメと言えばセル画」という固定観念はすでに崩れていたが、これはさらにガンダム世界を拡大させる性質を備えていた。つまり、架空の世界でガンダムやザクは実存し、それがたまたまアニメのセルで簡略化されて描かれてるにすぎず、もし写真に撮ることができればこうなる……というような思想が感じられるイラストであった。
 後に「リアルタイプ」とも呼ばれるこの大河原スタイルのイラストは、1980年7月にバンダイから発売された「1/144ガンダム」のプラモデルに端を発する「ガンプラブーム」とベストマッチであった。大河原イラストがミリタリー系モデラーたち(主に大学生)の想像力を刺激し、その自由なキャンバスとしてプラモデルが使われる。改造され、リペイントされ、さらにはウェザリングなど高度な塗装テクニックが駆使されたプラモデルは、発売直後から模型誌「ホビージャパン」で作例として紹介されるようになる。
 さらにそれが拡大するのが、劇場版第1作目公開直後、1981年4月15日に発売された講談社のムック「アニメグラフブック 機動戦士ガンダム」であった。同誌は安彦良和アニメーションディレクターによる第一原画が多数掲載されて話題を呼んだが、モデラーの目を引いたのが、大河原邦男が新たに描きおろした4機のザクのバリエーションであった。迷彩塗装、砂漠戦用、水中用、高射砲搭載と用途も明確に示されたこの4機を母体に、やがて雑誌主導の企画MSV(モビルスーツ・バリエーション)が立ち上がる。
 MSVの掲載誌は講談社の児童向け新雑誌「月刊コミックボンボン」(1981年10月創刊)で、これはちょうど劇場版『ガンダム』の2作目と3作目の間にあたる。この時期はガンプラは超品薄で、入荷のたびに長蛇の列ができて抱き合わせ商法などが問題になるほど。そんなプロセスでガンダムブームが低年齢層(小学生)へと降りてきたのと歩調を合わせている。同誌では1982年1月から『プラモ狂四郎』(原作:クラフト団/作画:やまと虹一)の連載がスタートする。シミュレーション装置でガンダムのプラモデルに少年が乗って戦うという夢のような企画に加え、MSVの登場するミリタリー的記事の相乗効果で、ガンダムブームは劇場版終了後もさらに続いていくことになる。  劇場版2作目の時期には他にも重要な書籍が出ている。1981年8月に月刊OUTの増刊号として発売された『GUNDAM CENTURY−宇宙翔ける戦士達−』(みのり書房)である。これはTV版『ガンダム』にも脚本家として参加した松崎健一が所属していたSF集団「スタジオぬえ」のメンバーと作り上げたムックである。イラストには宮武一貴、河森正治、美樹本晴彦が参加。要するに1982年10月スタートの『超時空要塞マクロス』の中核メンバーである。さらに文章の方ではミノフスキー物理学を中心に、ガンダム世界に徹底した考証と設定を加えている。
 たとえばジオン公国軍による「コロニー落とし」に「ブリティッシュ作戦」と命名し、目標都市をシドニーと決めるといったレベルから、モビルスーツに手足がついている理由(AMBAC用)、Iフィールドによるビーム兵器の考証に至るまで、現在「公式」とされている宇宙世紀の数々のSF設定は、同書が発祥のものが多い。
 『GUNDAM CENTURY』のイラストもモデラーに強い影響を与えている。たとえば1981年7月、劇場版第2作の時期にガンダム模型のマニュアル本『HOW TO BUILD GUNDAM』(ホビージャパンが発行されているが、そのパート2『HOW TO BUILD GUNDAM 2』(1982年5月1日初版)の表紙では『GUNDAM CENTURY』用に河森正治が描きおろしたメンテナンスハッチをオープンしたRX-78ガンダムの勇姿が、構図も同じ状態で掲載されている。
 この例が代表するように、ガンダムが劇場版とともにポピュラーになっていった時期、さまざまな方向性に向けて可能性を信じ、開拓を続けていった人びとが大勢いた。常に最前線(フロンティア)を目指す彼らは孤独ではなく、相互に影響し合って挑戦を続けていた。
 劇場版『ガンダム』は優れた作品だが、その時期の「醸成」があるからこそ、現在の芳醇な「ガンダム世界」があることは、ぜひとも記憶にとどめておいてほしい。。

 
(文中:一部敬称略)



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